・ふだん「言う」や「書く」ということをするとき、どこかしらに相手の存在を気にしている。ひとりごとや日記を除けば、ほとんどだろう。そして「伝える」という行為を通して、知ってほしい自分をさらけ出している。わかりやすいのはインスタグラムで、そこに映るのは自分の映したいブランドでしかない。ぼくたちは相手を気にした「ことば使い」や「しぐさ」をする。
「伝える」ことが人為的で、不自然であることに、なかなか気づけない。なにも考えずに伝えるのはナンセンスで、あらかじめ綺麗にことばを整え、これで「伝える」と決めている。それは伝えたときに、評価される自分を見越してのプロセスなのだ。<こう言ったら、こう思われるんじゃないか。>自分が意図する姿になれるよう、ことばを選ぶことを、1秒もかけずにやっている。
<意見として発表するような意気込みはないし、知識の整理もできてなくて、考えは練れてもいない。だけど、親しい人といるときに言うようなこと。だれかからチェックが入るのではないかと、気にしながらしゃべるということも忘れてみる。だから、主観的にすぎるかもしれないし、別の立場の人が聞いたら怒るようなこともあるだろう。>
伝えたいことを伝えきった状態で、ツイッターやブログのような「伝える枠組み」だけが残っていたら。伝えたいことではないけど「言ってみたいこと」を、とりあえず放つ素直な自分がいる。この何も気にせず、ただポツリと書いたり言ったりすることと、前述の"人為的"な「伝えること」のバランスが大切なんじゃないかなあ。
今日も「頭サビ9割」に来てくださって、ありがとうございました。